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2021.02.12

元運転手の僕が、赤字の運送会社を黒字にした、本当の話。

元運転手の僕が、赤字の運送会社を黒字にした、本当の話。

元運転⼿からなぜか社⻑に!
⾚字の運送会社を⿊字にした元ドライバーの話。

(本事例は、私杉本圭也の例であり成果・成功を保証するものではありません)

はじめまして。私は元ドライバーで、今は ㈲丸福運送店 代表取締役をしております杉本 圭也と申します。

まずは、会社概要と自己紹介をさせていただきます。
社名は、㈲丸福運送店、創立が昭和 43 年 8 月、今期で 52期目となります。業種は、一般貨物自動車運送事業といういわゆる運送屋でございます 。

本社は、兵庫県姫路市、社員数は17名、業界では小規模ではありますが、一番多い事業形態だと思います。部門別内訳はドライバー11名・構内作業員2名・事務員2名で構成しております。 大型7台、中型 5 台とフォークリフト3台、3年前の 2月に新社屋を建設しました。

少しずつですが、働きやすい環境を整えることが出来てきました。一方、私は、生まれは兵庫県宍粟市山崎町、昭和53年3月生まれで42歳です。
⾦融機関の⽗親と、同じく⾦融機関の⺟親の⻑男として産まれ、未熟児で仮死状態でしたが、保育器で奇跡の復活を果たしました。 目の見えない子か脳性小児麻痺は覚悟しておいて下さいと、両親は伝えられたようですが、42年間大きな病気もなく今日まで人生を生きてきました。
これは、両親に感謝しないとなと思っております。
ただ、学生時代は、あまり勉強ができなかったのと、悪い事ばかりしておりまして・・・。

高校時代は非常に荒れたかと思いますが、ここで人生の大きな出会いを果たします。
僕より荒れ果てた、当時高校で一番人を殺めそうな人間であった、今の専務取締役の柴原と出会ってしまいます。
その後は、少しの間、別々の道を歩むのですが・・・
専務との話をすれば1時間くらいかかりますので、それはやめておきます。

私は、高校を卒業し、建築会社に就職して営業に従事しました。元々、人と関わるのが苦手な性格でしたので、3年で退職。人と関わりなく仕事をしたいという思いから、「トラック乗ったら一人やし、一人がやっぱり楽やし」という事で、㈲丸福運送店に入社しました。
4年間程のドライバー時代は非常によかったです。 1人で誰にも干渉されない、好きな時にたばこ吸って、知らない土地に大きなトラックで向かう、またトラックだけに大きな気持ちにもなり、頭も真っキンキンしてしまうという。

挙句の果てには、当時ナンパした子をトラックに乗せたりとなかなかのアホでござます。その後、構内作業員を経て、経理につきます。

ドライバーから構内作業というのは想像がつくと思いますが、経理は想像つかないと思います。
これは、当時の専務が体調を崩し、一番若いからパソコンとかできるやろうという安易な理由で、経理に配置転換となりました。半年後にその専務は亡くなられるのですが・・・
簿記の学校に通ったり、会計事務所の勉強会に行ったりと、勉強ができない私が0から財務会計を学び、資金繰等を任される、という流れでした。「ド素人が会社のお金を回す」という、当時の前社⻑を思うと「よう任したなぁ」と思います・・・

また、この時期28歳で結婚をしました。 結婚して 10 年以上になります。
今では、会社も少なからず良くなり、仕事も家庭もうまくいっているように映るらしく「杉本さん最高やなぁ幸せそうやなぁ」とかよく言われますが、疲れて帰る私にストロングのチューハイ(あのアルコール度数9%のやつ)を片手に、でギターを弾く嫁がいて、「この曲でセッションするぞ」そう言われてセッションを強いられる・・・「さん!はーい!」とか「せーの!」とか言われます。

私は歌を強要され、子どもはこたつの中で両耳を塞いで眠るという家庭でございまして、最高でも幸せでもありません・・・
今の私は、経営者の集まりという名目でビジネスホテルで 1人お菓子を食べながら YouTube を見て時間を過ごすというのが密かな幸せです。
おっと、話が逸れてしまいました・・

社⻑になるまでの経緯

ここからは、いよいよその時の自社の状況や僕自身の当時の思いや行動をお伝えさせていただきます。
今から6年前は、毎月赤字の会社です。未償却を繰り返し、最終は少し⿊字決算するという状態。
営業スタンスはまさに御用聞き、しかも運賃は格安、格安というか、お客様が安くしてくれと言われれば安くして差し上げるという、会社は⾟いが、前社⻑は絶⼤なお客様から信頼はあったと思います。
信頼ではなかったような気がしますが・・・

そんな手法でお客様との取引をしていたので、リーマンショック以降は赤字のオンパレード、それをどうする事もできず、私は会社の文句ばっかりを言っておりました。
同じ従業員である仲間の前では「会社やばい、潰れるで・・・」「社⻑があかんわ・・・」 社⻑の前では、「ドライバーがあきません・・・」「僕はやっているんですけど・・・」 「言う事聞いてくれません・・・」という、嫌われたくない八方美人全開です。
いわゆる、関⻄弁で⾔う“ええかっこしい”です。

当時、右腕の私からそんな言葉が出るので、会社としては本当によろしくない状態なのは確かです。
当時の社員さんは、作業服バラバラ、社員同士は仲悪く、社⻑にわめき散らす⼈間、半年に⼀回は追突事故起こす⼈間、飲酒で捕まった人間、そもそも免許がない人間、金を毎回貸してくれという人間、会社の作業服すら着ない人間、会社のトラックをデコトラみたいにしてる人間、頭がトウモロコシみたいな人・・・色々な社員がいました。

そんな人間たちとは関わらず、“自分はやっているし、間違ってない、ドライバーが休んだら代わりに走り、構内作業員が休めば代わりにフォークリフトに乗り、営業もしている、もちろん財務や経理もやっている。ましてやみんなの給与計算や年末調整も僕はやっているし、なんでも出来るし、僕を嫌うところないでしょ?だから俺になんやかんや言うてくるなよ!”
といった感じです。しかし、なんやかんや言ってくるんですよね。 そんな事、自分で聞けよ!と思う事でも、嫌われたくないから全部対応してしまうんです。 当時の前社⻑は相談しても「ええようにしといてくれる?」「金がなかったら借りなしょうがない」私が「銀行貸してくれないんですよ」て言ったら「あかんかったら手挙げなしょうがいない」の繰り返し。

私は、精神的にも弱く、だから八方美人なんですが、心身ともに疲れてしまい、鬱に近い状態まで行き、とうとう辞表を出します。鬱って言葉があるので使いましたが、実際当時は心身ともに疲れ果てている状態です。 ここで、社⻑に止められ顧問税理士にも止められました。結果、辞める根性もなく辞表を撤回するのです。

これを読んでいる方は、おそらく経営者なのでお分かりだと思うのですが、現場の代わり、財務や、労務は全部仕事やったんです。
いわゆる「業務」なんですよね。心身ともに疲れた状態にまで追い込まれているのに、「業務」ばかりをやっているだけで、この状況を変えていく事は全くしなかったんです。更には、この状態や業績も含め社⻑の責任にして逃げておりました。
当然、当時の私はいち社員なので、そんなこと知ったこっちゃないというのが本心ですが・・・

金融機関は貸してくれない、資金繰り表は半年後に資金ショートする状態 。そこで、前社⻑が開いた最初で最後の会議、今では弊社で伝説になっております 「手挙げて会議」が開催されました。 この会議は、業績不振で金融機関も貸してくれない、もうあかんと⾒込んだ社⻑が、希望退職を募った会議で、「辞めてくれる人手挙げて?」実際手を上げる社員もいません。すると「おらん・・・、ほなワシの代わりやってくれるやつ⼿挙げて?」と⾔った前社⻑渾身の会議でした。

ここが、僕のターニングポイントだったのかなぁと思います。
ここで「もしかしたら、俺でも社⻑になれるんかな」という思いも少なからずあったのかもしれません。
ただ、こんな会社の社⻑になりたくない気持ちもありましたし・・・
「やめよかな?」
「でもやったら社⻑になれる?」
「いや俺には無理や」
というような葛藤が、心の中で繰り広げられたかと思います。
ただそこには、何にもしていない自分自身がいる、経営を改善することもしていない。
当時、病んでましたので「人は変えられないが自分と未来は変えられる」こんな言葉はめちゃくちゃ入ってくるというか、この時に宗教の勧誘でもされたら一撃で入ってたと思います。

うさん臭い壺とかむちゃくちゃ買ったと思います・・・
そんな言葉を胸に、どうせ辞めるにしても爪痕残して辞めたろかい!的な感じでした。 非常に投げやりでしたが、実はこの投げやりが当時の自分を楽にしてくれました。あかんかったら辞めたらええかな・・・十分今までやってきた、でもこのままじゃ会社に食われただけや、一矢報いたい。そんな思いだったんだと思います。

ある経営者団体との出会い

じゃ、どこからどうしたら会社良くなるの?どんな勉強したらええの?って手当たり次第セミナーや研修に行ってました。
そこで、近くの同業者の社⻑さんが、こんなんどう?⼀回行ってみる?って言われ、そこで出会ったのが、経営者団体の学びでございました。
この会は、経営者や経営幹部が経営を学ぶための集まりです。
毎月例会があり、そこに参加するようになりました。

今では理解できる話かも知れませんが、当時は難しく全く理解できておりませんでした。
どの部分がというと、外部環境や内部環境がどうやらこうやらと・・・その当時は、「地域とか関係ある?」「日本経済関係ある?」位でしたので、「いやいや、そんなたいそうな会社ではないし・・・」みたいな感じです。
ただ、私が最も衝撃だったのが、例会のおける経営者の報告内容より、報告後のグループセッションでした。
私は基本ええかっこしいなので、最悪な自社の状況を隠し、悩んでいることを言うのもかっこ悪い、会社の代表として来てるので、賢いように立ち回らないと、とか思ってました。

でもここに来ている人たちは、違っていたんです。
もちろん「売上目標達成した」とか、「従業員が自主的になりだした」とかもありまずが、普通に「うち最近あかんねや」「赤や」「従業員半分辞めた」とかどないしたらええかわからん」って言ってる人もいるんですね。
でも、悩みの懺悔のセッションではなく、「じゃこうしたら?」「ウチもそうやったねん、とりあえずこうしてみ」とかの話になっているんですね。

私は当時「恥ずかしくないんかなぁ」「そんなん言うてしまうんや」って思ってました。
「ダメなら、どうするか」という明日への行動を考えたりと、そこにいる経営者たちが、まさに社外取締役なんですね。みんなが、同じ環境や同じ立ち位置や同じ境遇の方もおられ、決して傷の舐め合いではなく何をするべきか、何から手つけるべきかを経営者が経営者に言っている状況を見て、なんの躊躇もなく入会しました。
当時、学びを異常に欲してましたので、行ける学びの場は全て行きました。 経営を学び、組織を学び、自分の経営ツールにする。

ただ、当時私のダメなところは、行けるものは行って学んだんですが、本当に行って学んだだけだったんです。
勉強になった、勉強している、他の社員より(当時僕も社員でしたので)勉強している。そんな、自分だけが気持ち良くなっている状態 でした。
インプットのみでアウトプットなし。
会社は変わらないとダメだという雰囲気はつくれたが、実際変わっていない。例会で聞いた話を自分の言葉に変え、言う事だけ達者になるという、まさにダメなやつです。

そして、当時の前社⻑との関係ですが、この会に⼊会して、私が成⻑し⾮常に仲が良くなりました、と⾔いたいところですが、出来ていない社⻑を⾒るもんですから、更に仲が悪くなるという・・・
その頃から、前社⻑に対してゴリゴリ意⾒をするようになりました。
冒頭で話した通り、今までは、⼋⽅美⼈ですので社⻑にムカついても「はい!そうですね!」 何頼まれても「はい!承知しました!」の YES マンな私でした。
しかし、インプットした自信もあり、意見をし出す。

当時のやりとりですが「社⻑は何のために経営されてますか?」(これはほんま
に知りたかっただけです)
「やれ言われたから・・・ワシやりたくなかったんや」
「感謝・誠実・謙虚。社訓の意味はなんですか?」
「マネしたんや、かっこええやろ」
「試算表を通して社⻑の意⾒をどう思っておられますか?」
「もう・・ワシわからん・・・ええようにしといて」
いよいよ前社⻑は、私が煙たくなってきたんやと思います。
あまり話さないようになりました。
前社⻑との関係性は逆に悪くなるというは変化がありましたが、会社は変化がない。でも全部ひっくり返したい、でも邪魔くさい、でもやらないと前に進まん・・・、そんな葛藤を繰り返しておりました。

この足踏み状態を脱却するにはどうしたらいいのか? そのヒントをくれたのが経営者団体で知り合ったNさんです。この方、よく中国語の四文字熟語で例えられる方で、私は分からないので毎回その言葉をグーグルで検索し理解するという、このひと手間かけると更に学びが深まるという良い癖となりました。

経営指針書に出会う

ある時、Nさんから経営指針書成文化勉強会というものを教えていただきました。
理念・方針・計画・ビジョン等、を策定する勉強会ですが、最終的には経営計画書のようなもの作成し、社内発表までするというものです。
しかしながら、当時部⻑という肩書で経営者でもありません。
経営理念なんて・・・
僕が方針なんて・・・
費用もかかる・・・
まだ早い・・・
色んなやれない理由をつけて逃げてました。

その時にNさんの『馬を水辺につれていく』という言葉 。
「あんたを水のみ場までは連れて行くけど、水を飲むのはあんた次第や。やるか、やらんかはあんたが決めなさい」と言われ、結果、半分頭抑えて水飲まされた感じだったんですが、アウトプットできていない自分や一歩出ない私を見て、助言してくださったんだと思います。
これをNさんが勧めてもNさんにはなんのメリットない、一銭も入らない。じゃ、なんで勧める?そこを考えると、当時の自分や今の丸福に必要だったからだと思います。

経営者になる者として、方向性や自分のビジョンというものを決める事が、どんなに大切な事かを教えてもらったような気になり、勉強会参加を決意しました。
今思うと、半年、一年遅かったらと考えるとゾッとするくらい、この勉強会は自分や自社のブレブレを修正する始まりとなりました。
会社を客観的に見る時間を強制的に作り、普段かかない脳みそに汗をかき、必死に経営指針書を完成させました。しかし完成というか、当時はまだまだ知識や経験もない不完全さ満載のはじめての指針書です。

また社内発表に向け、プレ発表いわゆるリハーサルというものを経営者仲間に開催していただき、見て聞いてもらい、忌憚なきフォードバックをいただくという、本当にありがたい時間を設けていただきました。
私は人前で話すのが苦手で、すぐ震えて緊張しまくる人間でしたので、プレ前日の夜、嫁に対しプレのプレをお願いしました。
当時もビール片手に、真顔で聞く嫁に向かって発表させていただきました。 結果 30 分の発表に1時間のフィードバック、というか説教に近いものでした。
「えーが多い」「かみ過ぎ」「前向け前」「読んでるだけや伝わらん」「猫背やめろ」「それほんまに思ってんのか?」等々本当に泣きそうでした。

そんなこんなでプレ発表当日

その日いただいた、参加者の皆様から宝物のようなフィードバックシートを今だに大事に持っております。
中には、きついお言葉もいただきましたが、嫁の方がきつく感謝の気持ちしかありませんでした。ここは嫁に感謝かと思います。
そして、前社⻑に⾒てもらい、指針書の中に(指針書発表にあたって)というところがあるんですが、そこは前社⻑に書いてもらい、「絵に書いた餅になるなよ」て言われまして、その事に腹を立て、「絵に書いた餅すら書いてへんから、こんな会社になっとんだろがい」くらい思ってましたね。

一週間後、初めて社員さんにアウトプットされたのが「第一回丸福運送店指針書発表会」です。
作った指針書を社内で発表をしていない方もおられますが、私はそこまで深く考えていなかったです。
社員が辞めるかもしれない、会社が変な方向にいくかもしれない、いろんな思いや考えがある方は沢山おられると思います。
そちらがむしろ普通です。

その時、私は全く逆で「誰か辞めろ、これからは俺や」「気に入らんかったらやめてくれ」とそんな気持ちでした。
またここでクズなのが「お前らにこれが作れるか?作れるはずないやろ」「あんたら会社の事考えてくれてへんもんな」「自分の事ばっかりやもんな」くらいの気持ちでした。
「これからは、前のようなぬるま湯やない、嫌やったらやめろ」です。
でも、社員さんは意外に聞いてくれ、一人も辞めず「なんでやねん!」って感じでした。

そんな第1回指針書発表会の流れで、なぜ社⻑になったか?2015 年2回⽬の発表は、開催したものの会議の延⻑で開催、少し熱の冷めたものでした。なぜかと言いますと、1年経過してそんな変わらなかったからだと思います。 でも、なにかが⾜りん、私の熱さもそうですが前社⻑がまだ健在であり、やっぱり私は2番手 No.2の人間で、社員から⾒てもトップは前社⻑だったんです。

会社を変えるためにはやっぱトップにならんと変えられへん

「出来るか・出来ないか」より「やるか・やらないか」で選択し、今までやってきた未練と、こんな僕でもトップになれる、人生一回のチャンスかもしれないと思って、覚悟しました。
その結果、やっと腹をくくり「社⻑、僕がやりましょか?」と切り出しました。
すると、しょか?にかぶしてくる感じで「ええか?」って⾔った前社⻑。「レスポンス早いわ」とツッコミたい思いでしたが、今思えばきっと逃げたかったんだろうなと思います。

そして 2015 年の上半期が終わった中途半端な時期 9 月に代表取締役に就任しました。
前社⻑への退職⾦を、税理⼠と中⼩企業診断⼠に根回しして安くさせたりとか、決算書を赤字にして株価下げるのは良く使われる技やと思いますが・・
いろんな手法をとって代取交代までいきました。
私の社⻑までの経緯としてはざっくりこんな流れです。
その時、最後のあいさつを⾔う前社⻑の⾔葉を聞いていると、今までの⾟さや、社⻑との確執や、はよ辞めてもらいたかった社⻑、嫌いな社⻑、なんもせん社⻑と⽂句⾔っていたのが、走馬灯のように流れ、そのあいさつの最後には「今からは杉本をみんなで支えちゃってくれ、頼むぞ」って言葉に涙が溢れました。

うちの女性社員から「男の人であれだけ泣く人はじめて見た」と言われました。
また、社⻑を盾にして逃げれてた、社⻑の責任にしていた、他責の鎧がなくなり、めちゃめちゃ怖くなってきたのが正直なところです。
これからは全部自分の責任、トップに憧れたけど実際なると、むちゃむちゃ怖かったんです 1 億以上もの借金の保証人、お客様からの目、金融機関からの目、社員からの目、協力会社からの目・・・正直「これやってもたな、えらいこっちゃ」って思いました。
もっともっと本気でやらなあかんと。でも、びびってても始まらん。

最悪から普通へ

これをテーマに第 3 回指針書作りは、数値目標や数値計画を重点的に取組みました。
営業と運賃の改定、変動費の削減、借金の整理、そして、安全性優良事業所認定、持続化補助金、経営革新、ありとあらゆる金屏風を会社に置いていく感じです。

ここからが本気の指針書になります。しかしながら、社員はここで辞めていきます。
前社⻑のやり⽅が好きな社員さんもいますし、考えてみれば私も含め全て前社⻑に⼊れてもらった社員さんばかりで、まだまだ若い杉本、YESマンだった杉本に代わった現実を見て辞めるという形になりました。
残ってくれた社員には、業績が悪いというイメージがこびりついています。パォーマンスとして「絶対に年度末に⿊字にしてみんなに賞与を渡す」という約束をしました。
そして出すという。
といっても、大方出せるのが分かって約束したとこがクズです・・・
ではここで、私がどのように⿊字化したかについて、書かせていただきます。

⾚字から⿊字にする為に私がやった5つの事

1.危機感を持ち、それを社員さんと共有すること。
まず、社⻑(⾃分)だけが頭を抱えないことが大事です。
経営幹部、社員さんと共に現状把握し、⿊字化への意識統一を図りました。
(全員で危機を乗り切る心構え)

2.費用のウェイトを極限まで落とす。(ムダをなくす)
費用の整理整頓を行いました。
「いる or いらない」を勘定科目順に分析。
徹底的なケチ経営です・・・

3.顧客の整理
原価管理を行い、顧客別(部門別)に粗利を分析しました。
義理人情は必要だけれども、はっきりと顧客に厳しい現状報告を行う。
理解いただければ値決め交渉へ、理解いただけない場合は取引停止へ。

4.適正価格(値決めの見直し)
⿊字化には、どれくらい利益が必要かを明確にしました。
(中⻑期ビジョンの策定)
気を付けたのは、社⻑(⾃分)だけで策定しないこと。
経営幹部、社員さんと共に策定、共有を図ること。
顧客とも交渉を行い、新規開拓・既存顧客の深堀りもしました。(PDCAの実施)

5.金融機関との関係性強化
改善計画を策定し、金融機関と毎月日程調整し、業績報告会を開いて、計画進捗状況を報告することにしました。
計画発表会にも出席を依頼し、対立も覚悟で挑みました。

この中でも、お客様の価格交渉は慎重に自社で精査しなければなりませんが、お客様に現状報告を正直に行う事は、かっこ悪い事ではありません!
そして真正面から金融機関さんと関わること。
社員さんを守る為、自社を守る為、経営者の覚悟はそこからです。

という事で、がむしゃらにこの5つをやりながら、なんとか⿊字が⾒えてきました。
初めてたった 5,000 円の⿊字で、同級⽣の専務と⽬に涙を溜めて「やっとやな」って握手したのは今でも忘れません。

約束も守り、数字もV字回復。どやっ?くらいな気持ちでしたし、でもなんで辞めるんやろ?とも思っていましたが、結果4人辞めていきましたね。これは、まぁまぁショックでした。
また、借入の面では最近では個人保証も外れてきて、資金的にもやや余裕も出来てまいりましたが。
ただ、ここまで来るのにめちゃめちゃ色々ありました。

弊社は、親父が18歳から務めていた金融機関と創立以来から⻑年の取引があり、⼤半の⻑期借⼊⾦はほぼそこにありました。
そんな事もあり、毎月の業績報告会も開催させていただき、金利交渉の一環で業績の良くなってきた試算表で話合いを重ねました。

しかし、一向に利息を下げてくれない、実際は他行からはもっと条件の良い提案をいただいている中の交渉でしたが、それでもこの金融機関でという思いもありました。
そこで誠意をもって再度金利の交渉をお願いしました。
そこで、応接室に通され、⽀店⻑がソファーにどすんと座って「杉本さん自信と余裕が出て来ましたね、でも中小企業さんの利息は、どこもこれくらいですよ」って言われて、久しぶりに、このおっさんどついたろかなと、高校生の時に自分が、出てきそうになりましたが・・・

結果、他行で借りて、その金融機関さんの借り入れ全てをひっくり返したという、なんとも薄情な私の行動になりました。
「結構思い切った事をしますね」と顧問税理士も言う、その⾦融機関は真っ⻘になってくる。
その時言ったのが、金融機関さんの為に経営していないし、あぐらをかいて取引してもらっても困るし、僕は本気やし、でもこの行動が褒められたもんではないと思いますし、今でもええか悪いかわかりません・・・と話したのを覚えてます。

でも、先輩経営者から「関係は繋いでおきなさい」と教えていただいて、今では良い距離で交渉している状況です。
その金融機関主催のゴルフコンペもあえて参加し、毎回120打くらい打って帰ってます。120打はあえてではなく、本気です。
ここまで、だいぶ環境を変えてきました。 今、5年前の事を や れ っ て 言 わ れ た ら 、 ち ょ っ と 出 来 な い か も で すが・・・
現在「丸福さんええ会社やなぁ」とか「頑張ってるなぁ」とか言ってもらえるようになりました。

しかし、現実はそんなことはなく、第4回指針書発表会の年末の忘年会に「丸福壁ドン事件」が発生します。
女性を口説くときの壁ドンを想像されると思いますが、丸福壁ドンは2年前の忘年会で社員さん同士がケンカして新しい社屋の壁を殴るという事件ですが、次の年は飲酒禁止令を出し、会社の飲みにケーションを停止しました。
良い会社に向けて歩んでるのに、アホみたいな事件も起きるんですね。
「社⻑怒らないんですか?」「あれはあかんで!」とか色々と社員さんからありましたが、もう情けなくてむちゃくちゃ落ち込み、⾔う気にもならない、社員さんの成⻑なんかでけへんのちゃうんかな・・・とかも考えました。

それでも、年が明けて初詣にみんなで行きました。ただその後、社員さんの変化をみる事ができたんです。
この事件についてドライバー同士がみんなを集め話合い、なぜあかんかったか、言い方、捉え方等を話合い、決してケンカ再発する事なく、仲直りをしてくれました。
ほんまに小学生みたいな話ですが、これすらできなかったです。 ただただ5年前とは違う社員さんの顔を見れたように思い、これもまた良かったなと。その話合いの議事録を書いて私に提出してくれました。
いろんな事件や問題があった時は、変化の時なんだと思います。

事故もそうです。
事故があった時もすぐに緊急会議を開く、原因と対策、まぁ当たり前の事なんですが、管理部はドライバーのメンタルを安定させるよう努力する。
次に繋げないように変化をする。

リスクマネジメントができるようになるんです。
発表会5回・6回は、ほぼほぼ社員さんが設営し、金融機関、協力会社をお招きして開催しております。
第6回今期の発表会でなんかこう丸福の指針書発表会はこの形ってのがこれ!ってしっくりきたものとなりました。
いろんな事件や問題を乗り越え、社⻑としても、⼈としても少しは変われてきたのかなと思います。

現在の自分

たただええかっこしいや、臆病な自分が消えてなくなったわけではありません。
1年にひと月でも赤字になる時があれば、社員さんには「しゃないしゃない、来月取り戻そ」笑顔で器の大きな社⻑を演じるですが、⼀⼈になれば、震えあがる、怖い、どないしょ、こいつら大丈夫か?って社員さんを信じていない自分もいる。
ええかっこしい経営者を演じている時が今でもよくあります。
「最悪から普通」へは出来た。
新社屋も建設できた。
年間 2 回の賞与(寸志)も出せる会社になった。
計画的に設備投資も出来てきた。
社員旅行も行けるようになった。
専務ともうまく役割分担ができてきた。
個人保証も外れだした。

でも、まだまだです。
数年前よりは、会社が良い方向に変化している。でも、ここからは「普通から最高への道」を進まなくてはいけません。まだその道は見えていません。
内心「このまま、保てれば」と思う現状維持の弱気の自分もいます。
従業員上がりのポッと出で、社⻑になった⾃分ですので、ええかっこしいで臆病な人間です。まだまだ人としても出来ておりません。クズなところもたくさんあります。サラリーマンの家で育ったので、経営者の家柄でもなく。
商売⼈の素質もなく出来る社⻑でもありません。

でも、社⻑をしている⾃分を全否定すると、社員全員を幸せにするという点も嘘になってしまいます。
これは決して嘘ではなく、責任という大義は嘘では出来ないと思ってます。
ただ社員さんの物心両面の幸せ・・・
これはどうゆうものなのかが、まだ理解できていないような気がします。
お金?
働き甲斐?
働き安さ?
成⻑?
環境も良くなっているのに文句は出る。年収が上がっても文句は出る。休みを増やしても文句は出る。寸志出しても、社員旅行が出来ても・・・
それどころか社員さんは、トップの一切のミスも、見逃さないし許さない。

だから、社⻑らしくなくてはならない・・・
社員さんの幸も不幸も社⻑次第。
関係者も。取引先も。

でも、私はそんなすごくない・・でもやっぱり、すごくないとあかんの?みんなそうなん? 僕、普通の人間やしってよく考えます。
会社の意思決定の最高責任者。
そして、誰でさえも理解ができない、孤独でもあります。
そんな、弱った時や息切れをした時に、いつもNさんにもらった手紙を読むんです。 代表就任した時にいただいた手紙です。

その中には(専務さんも社員さんも奥さんも、あなたの本当の心を理解できない、そんな時に頼りになるのが経営者の仲間です。困った時は抱えこまず周りの経営者仲間に相談しなさい)と書いてあります。
それを読んで目をウルウルして涙拭いて、また前を向くの繰り返しです。
余談になりますが、⻑男が四歳くらいでまだ喋るのがカタコトだった頃の話です。

当時は本当にしんどくて、家にそのしんどさを持って帰るまいと、明るく元気にただいま!って家族に言いました。
すると⻑男が「おかえり、⽗ちゃんようがんばったね」って言ってくれた時に、涙がこぼれて抱きしめた事があります。
今はもう⻑男は⼩学校6年生になりましたが、あの時にあの言葉で頑張れたってありがとうを言ってなかったので「今の父ちゃんがあるのは お前のお陰や、ありがとうな」と感謝を伝えたのが最近の話、2ケ月前です。
少なからず子供に勇気をもらったのは確かです。
ただその後「ほんならゲーム買うて」って言われましたが・・・

今後、経営者として

そんな中一つのブレない私の目標は、人に何かを与える人間になりたいという事です。
それは、ええかっこではなく、それこそ子供にもらった勇気だとか、一歩踏み出す手助けだとか、Nさんにしていただいた事とか 何かを与える人間になりたいと考えてます。

ここまで来れたのは、自分の力ではなく、多くの関わって下さった皆様のお陰で今の経営が出来ています。 会社が良くなる為には、もちろん自分の努力や学びが絶対必要ですし、より高度な意思決定をしなければなりません。 壊れそうになったり、くじけそうになる時は社員さんよりたくさんあると思います。

僕はよくこんなことを考えます。
「自分自身はこれでいいのか?」
“社⻑たるもの、社⻑だったら”という言葉が凄く怖かったです。
背伸びしてええ社⻑を演じてるし、そこに本当の⾃分はいないかなぁとか。
簡単に、「社⻑やったらこうや」とかいう社員さんに、ムカついてしょうがないって思ってました。
でもここ最近、自分自身で分かった事があります。やっぱり経営者の悩みは、経営者しか解決できないし、わからない。弱った時は、先輩経営者や経営者仲間に怒られ、誉められ、勇気をもらい、また明日へ行動する。

普段はええ社⻑を演じててもええんかなと、ただ本当の⾃分をさらけ出す場所さえあれば良いのではないか、そう思っています。

以前は、石橋を叩いて割ってしまう性格の私でした。
でも今はその石橋を叩かずしていろんな石橋の渡り方を教えてくれる仲間がいる。これはかけがえのない私の財産です。
ええかっこしいはまだ治っておりませんが、このええかっこしいが治ったら、私はもう⼀つ成⻑できているんだろうなって思います。

今では経営者仲間であったり、前社⻑であったり、丸福運送のみんなだったり、家族だったり、関わってくれた人が、自身を変えてくれて、助けてくれます。
また、その人達との関わりが、今の自分の自信につながってます。
要するに働き出した頃は、人との関わりが嫌でトラックドライバーになった私が、人と関わることで自分の環境を良い方向へと変えていけたという感じです。
今まで、つまづきまくりながら、進んできたんですが、安定したらまたつまずくのが怖くて、進むのをやめそうになる、でも経営者は歩みを止めてはいけないと思います。その歩みを止めない秘訣は、人との関わりだと考えます。

でもやっぱり人生はワクワクして楽しく生きなあかん。
これは、社員さんへ専務とともに毎回言っております。 私自身は、物流経営士、経営士の認定、さらに強み診断士資格を取得しました。 この学びを自社に落とし込み、さらに良い会社にしたいし、過去の私のような悩みの中にいる人に何かを与える事ができれば、私は最高の人生かと考えてます。
人生 80 年だとして、バリバリ働ける年数はあと 20 年と少し、もうちょっと時間欲しいけど、これが人生やと思います。
残された時間でどれだけ人に関わるか、関わった人に何を与えられるか、また返せるかが経営者というか、私自身の生き様、死に様だと考え、日々精進して参りたいと思います。

結びになりますが、本日このレポートをお読みいただいた皆様のご健勝とご活躍と、なにより社業発展を心より祈念申し上げ、つたない文章ではございましたが、以上とさせていただきます。

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

杉本 圭也

*本事例は、私杉本圭也の例であり成果・成功を保証するものではありません。

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